サッカー系コラム

現代サッカー。中田とトッティと時々オトン。

最近、公私ともに忙しくて、レビューを書けておりません。また、ホーム最終戦・新潟戦も、そんな調子でレビューを書く時間も取れるかな?というところだったりします。

ちょっと、書く感覚を忘れそうなので(苦笑)少し手を動かしておこうと思います。

今回は、ご覧になった方も多いと思いますが、DAZNの企画、

22 YEARS 中田英寿 × トッティ

で気になった所について、僕なりの解釈を書いてみようかと。

セレサポらしく、セレッソも交えて書いて行こうかと思います。

中田×トッティの現代サッカーに対するコメント

中田英寿とトッティ、言わずと知れた2000年代初頭を代表するMFですよね。ASローマ時代にトップ下のポジションを争い、ヒデvsトッティの構図は、当時の日本サッカーファンの注目の的でした。

また、個人的にですが、この2人とは同学年でして。日本でほそぼそとサラリーマンしてた僕は、

同い年やのに凄ぇな・・・

としか言えない存在でしたね(苦笑)

なので、このDAZNのヒデ×トッティの対談は、とても楽しかったです。トッティ、オッサンになったな・・・とかね(笑)当時の映像も多く使われていて、とても懐かしく思ってました。

で、この対談の最後の方に、現代サッカーについてどう見ているか?というテーマになりました。このテーマになった時の2人のコメントが、

なかなかに辛辣やなw

という所でした(笑)

詳しい話はDAZNを見てもらうとして、要約すると、

  • サッカーはビジネスになって、もはやスポーツではない。
  • フィジカル中心になり、ファンタジーなプレーはもう見られない。

この2つになってくるかな?と思います。こういった理由で、

サッカーを一切見なくなった

がヒデ。

熱狂しなくなって以前とは別のものだ

とトッティ。

要は2人にとって、

現代サッカーは詰まらなくなった

という所なんだろうなと思います。なんともかんとも。

で、実は2人がここまで言う理由について、僕自身も少なからず同意できる所があり、特に後者、

フィジカル中心になり、ファンタジーなプレーはもう見られない。

について今回は取り上げてみようかな?と思います。

現代サッカーの『戦術』とは何か?の1つの捉え方

ヒデやトッティが見えている現代サッカー。現代サッカーの特徴的なものの1つが、

非常に戦術的・システマティックになってきている

というところは挙げられるかな?と思います。試合レビューを書く方々も、こちらをメインに書かれてたりしますよね。

では、この戦術というのは何か?という所ですが、このブログをよく読んで頂いている方の中には知って頂ける人も居るかもしれないですが、個人的には、

何かを達成する為の方法論

という捉え方をしています。

そう。あくまで、方法論。重要なのはその方法論で得られる結果であって、言い換えると、

その方法論を使う事で『達成したい目的』が重要

だと個人的には考えております。

『達成したい目的』が明確であれば、方法論の内容は問わない。個人戦術でも、グループ戦術でも、チーム戦術でも、どの方法論でも良い・・・というような個人的なイメージですね。

そして、この『達成したい目的』をベースに語ると、少し違った角度で戦術を捉えることができるかな?と思います。そこで、登場してもらうのが、ヒデ・トッティと同じ時代に活躍した、

セレッソの現社長:モリシ

ですね。ちょうど、この辺を説明するのに良い題材を見つけておりましたので、前言通り、セレッソも絡めときます(笑)

でもって・・・セレッソのブログやっておりながら、モリシのプレーについて取り上げるのは実は初めてかも知れないです(笑)

現代サッカーは、モリシのプレーを〇〇化させている。

動画を貼ります。2000年の試合ですね。

セレッソのボールホルダー#10(盧さん!)の一番近くに居る選手が、モリシです。この時の盧さんから、

パスを受けるモリシの動き

に注目してみて下さい。

注意して頂きたいのが、モリシのクロスに対して、モリシの盟友:西澤アキが超ビューティフルボレーを打ちます。どうしても、そちらに意識が行ってしまうのですが(苦笑)あくまで注目は、最初の『パスを受けるモリシの動き』です。

綺麗に相手SBの矢印を折って、モリシは相手SBーCB間のスペースを突けてますよね。見事な動き出しで、完全にフリーになってます。

でもって、このモリシの動きを今風に言うなら、

アンダーラップで『ポケット』を攻略した

という所になりますよね(SBではないですけど、インサイドレーンを使うという意味で)。盧さんのパスが大外レーンに流れたのですが、モリシはアンダーラップでポケットを攻略し、そこから抜け出してクロスを上げた・・・という形でした。

当時を知ってるセレサポさんには同意いただけると思うのですが、こういう形で、

相手MF-DF間のスペースを攻略するのは、モリシの専売特許

という所でしたよね。この他の誰も真似できないプレーで、W杯スコアラーにまで昇りつめました。

そして、戦術的に今ほど整備されてない時代でこういう今でも有効なプレーが出来たのは、あくまで、

モリシの『個人戦術』

というところだったのかな?と。

翻って現代サッカーにおいても、ご存じの通り、ポケット攻略は1つの崩しの形ですよね。日本代表なんか見てても、ポケットのエリアにはインサイドハーフの田中碧が侵入したり、ワイドの伊東純也が入ったり、それこそSBの毎熊が入ったりと。ぐるぐるローリングして、相手のマークを外したりしますよね。

狙うエリアは同じと言えど、上のモリシと違うのは、チームとして狙いを付けてるという所ですよね。そういう視点で見ると、

ポケットを攻略する為の『チーム戦術』が確立されている

という所は言えるかな?と思います。

この時のモリシのプレーも、現代サッカーの田中碧とIJとマイクのローリングも、『達成したい目的』は同じで『ポケットの攻略』なんですね。その『ポケットの攻略』という目的を達成するのに、

昔は個人戦術だったのが、今はチーム戦術に替わった

という所かな?と。

最近になって『ポケット』と言うワードが頻出しだして、しきりに『ポケットを使うのが有効だ!』みたいな言われ方をします。が、個人的に言わせてもらうと、その戦術が『達成したい目的』は目新しいモノでも何でもなくて、20年前からモリシのプレーで見ていたものなんですね。

ただ、変わったのは、選択肢の内容・手段が変わった・・・という所かな?と。今のサッカーと昔のサッカーは、個人的にこのような対比で見えてます。

逆説的に言えば、

  • 個人戦術で良い結果が得られた。
  • その結果を次も得るにはどうすれば良いか?
  • 個人で無理なら、チーム戦術で考えてみよう。

という流れで体系化されていったものがチーム戦術だと個人的には思ってます。あくまで、ベースは個人戦術で見せられた『達成したい目的』なんだろうなと。

そうやって、個人戦術の『達成したい目的』はチーム戦術の目的とスライドして行く。そうして、誰が出ても同じ結果を得られるようになってくる。再現性とかいうヤツですかね。こういう感じで、ポケット攻略もモリシの専売特許で無くなってきたのですね。

こういう視点なので、個人的な戦術の捉え方の1つは、

『チーム戦術』=『個人戦術の汎用化

こういう所に落ち着くのかな?と思っています。

ここで、一端、話をヒデとトッティに戻します。そして、僕のオトンにも登場願いますw

個人戦術の汎用化、『個人戦術』の優れていた人はどう思うか?

ヒデとトッティ、言わずと知れたスーパーな領域に居た2人ですよね。

当然、モリシの動き出し同様、この2人も当然ながら、

個人戦術に長けた選手だった

というのは間違いのない所ですよね。

当時の『個人戦術』というのは、

自分がサッカー選手として生き抜くために考え抜いたプレーの数々

だと思うのですね。他の誰もが持ちえない技術・戦術眼を磨き、体得して行ったもので。

そして、極めに極めて唯一無二のプレーに昇華させた。だからこそ、あのレベルの選手になれた訳で。そうやって、他の選手と差をつけて行ったと。

そんな努力の結晶で得られたような、それらのプレーの数々を誰でも使えるように、

チーム戦術として『汎用化』されてしまったら、その個人戦術眼を持つ選手はどう思うか?

そう考えると、どうでしょうか?

そら、個人戦術・技術を極めに極めたサッカー選手にとっては、

今のサッカーは詰まらん

という所になるのではないかな?と(苦笑)ヒデとトッティのコメントを見て、彼らはこのように思っているのではないかな?と感じました。

そして、思い出したのがウチの父親でして。オトンは、歴50年以上の寿司職人でした(今は引退して、駐輪場のオッサンやってますw)。

少しエピソード的な所ですが、握り寿司のシャリ(お米)の部分を僕らは『シャリ玉』と呼んでいました。ある時、某メーカーの営業でシャリ玉を作るマシーンをウチの店に持ってきたのですね。そのマシーンが作るシャリ玉の精度を見て、

もう、寿司職人は不要やな。

と、オトンは自虐的に笑ったのですよね。マシーンが作るシャリ玉の上に、寿司ネタを載せるだけで握り寿司の完成で。それこそ、バイトの学生でも握り寿司を作れるようになってました。

そして、そうオトンがそう発言して以降、回転寿司のチェーン店が大流行りしたのです。何とも・・・(苦笑)当時は、寿司屋において、そんな時代の転換期のようでした。

ここで言いたいのは、

『汎用化』が進むと、職人技は必要ではなくなる

という所。職人技を『個人戦術眼』と置き換えると、

サッカー界でも同じようなことが起こってるんでは・・・?

と。

汎用化が進み、寿司業界では寿司職人が不要になり、サッカー界ではそれまで通用していた個人戦術が過去のものになりつつあるんだと。

これ、想像すると分かって頂けると思いますが、実に寂しいことだと思うのですよね。ヒデとトッティ、そして、ウチのオトンと。サッカー選手と寿司職人の違いはあれど、気持ちは似たような所なんだろうな?と感じました。

フィジカル・サッカー

毎度のことですが、ちょっと余談が過ぎました(苦笑)

ヒデとトッティのコメントの中で、もう1つのキーワードが、

現代サッカーは、フィジカル中心

という所かな?と思います。この辺も少し触れておきます。

現代サッカーの戦術上の特徴と言えるのが、

トランジションの対応が戦術的に整備されている

というところかな?と思います。

トランジション = ボールを奪った(奪われた)直後の切り替え

というところでしょうか。

『ボールを奪った』『奪われた』という状態は、つまり、

相手が近くに居る

という事になりますよね。綺麗にパスカットできた場合は別ですが、トランジションのほとんどの場合は、球際の競り合いの中でボールを奪った/奪われたみたいな状況ですよね。

即時奪回という言葉もある通り、相手が近くに居てボールの奪い合いが生まれる状況、当然ながら、

フィジカルコンタクトが生まれ易い状況

ということは言えます。だから、トランジションの戦術的な整備が行われた最近のサッカーは、

フィジカル中心

と言うことは言えるのかな?と。ボール保持、非保持と同じくらいの割合で、トランジションは行われますからね。

ヒデがコメントした、『どのくらい走れて、どのくらい強いか、速いか・・・』が、まさにここで求められる印象ですよね。戦術的にトランジションの部分を成立させるためには、フィジカルが必要と。

ここもセレッソで例えてみますと・・・・奧埜博亮。セレサポみんなが大好き、奧埜ですね。

2022年に行われたE-1選手権。この時の日本代表は国内組限定という事になっていて、Jリーグ所属選手のアピール合戦があったのですね。

この時のセレッソは『奧埜のチーム』みたいなところがあって、奧埜の活躍が凄かったです。清武(清水戦で負傷)が抜けても、奧埜が居る。そんな奧埜なら、国内組限定であれば代表選出も・・・とサポ内で期待されてたのを記憶してます。

そして、選考直前の試合になったのが、ホームFマリノス戦でした。

2-0で試合終盤まで移行するも、山中が退場して、最終的にレオセアラ(Fマリ時代)の終了間際の2ゴールで引き分けに終わりました。結果は残念な試合でしたが、この試合の奧埜は大活躍しておりました。

そして、この試合、森保監督も見に来てたと記憶してます。それ故に、奧埜の代表選出の可能性も!?と期待は高まってました。

ただ・・・・奧埜は選出されず。代わりにボランチで選出されたのが、この試合で奧埜に完封されて何もできてなかった『藤田譲瑠チマ』やったんです。

ひいき目なしで奧埜の方が格上感が出てました。それも、森保監督の目の前で。それでも選ばれたのはチマの方で。この結果から、

フィジカルしか求められてへんやん(苦笑)

という印象は強く受けてました。

つまり、現代サッカーで求めらるのは、

奧埜のプレーのようなワビサビではなくて、フィジカルなんだな

と。それ以外に、奥埜落選でチマ選出の理由が見つからなかったです(苦笑)年齢という所もあるかな?と思ったのですが、この代表では奧埜と同い年の水沼宏太が選ばれてましたからね。そこではないな?と。

藤田譲瑠チマが良くない!と言う訳ではないんですけど、フィジカル中心で奧埜のような選手が外される現代サッカー。トッティとかヒデは、そういう所を嘆いているのではないかな?と感じております。

個人的にも、2021年のクルピ就任時に、

現代サッカーのアンチテーゼ的にクルピのサッカーで勝って欲しい!

とブログで書いてましたね(笑)

歴史は繰り返す。

そんな感じで、どちらというとネガティブな分析になってきました。まあ、ヒデとトッティのコメントは、現代サッカーに対してネガティブな印象でしたからね。

その流れで、記事的にはネガティブな印象の内容にはなってしまったのですが、

サッカーは楽しいっすよ(笑)

というのは言うときたいですね。

見てる人と、現場でやってた人の視座は絶対に違いますよね。ヒデとトッティのコメントは、現代サッカーへの批判というよりかは、当事者ならではの視点から来る、

嘆き

だと思います。自分が居た業界で、自分が想像してた方向には進んでないことへの嘆き。素人:見てる側には分かり得ない感情とか思考があるんだと思います。

ヒデやトッティが詰まらないと感じていようとも、それに同調することは素人:見てる側では不可能で。だから、見てる側は、有識者の嘆きは気にせず、楽しめば良いと思うのですよね。

寿司職人の嘆きを知らなくても、美味しい寿司は美味しいと。出された握り寿司が、寿司職人が作った寿司であろうとマシーンが作った寿司であろうと、美味しければ食べますよね。

サッカー観戦も、それで良いんだと思います(笑)ヒデやトッティが嘆いても、楽しめればそれで良いんだと。

また、ヒデやトッティは現代サッカーを嘆くのですが、その更に1~2回り昔の世界的サッカー選手:ペレ。実はペレはペレで、ヒデやトッティらの時代のサッカーを見て、

ペレ:(ヒデ・トッティ時代のサッカーは)ファンタジーが無くなった

と嘆いていたんですね。ここは想像ですが、恐らくもう10年もすれば現役を引退したメッシやクリ・ロナがその時代のサッカーを、

メッシ・クリロナ:ファンタジーが無くなった

と言い出すと思います(笑)

時代を追うと、有識者は同じことを繰り返し言うてるのですね。面白い事に。ペレの時代にあったファンタジーは、ヒデ・トッティの時代にはなくなったとペレは言うのですが、ヒデ・トッティは俺らの時代にファンタジーはあったと言うてる訳です(笑)

だから、ヒデ・トッティは現代サッカーはファンタジーは無くなったというのだけど、現代サッカーに生きる選手には言わせれば、現代サッカーでも確実にファンタジーは存在するのだろうなと。

そこから読み取れるのは、その時代、その時代でプレーする選手たちは、それぞれがそれぞれで、

時代に合った自分なりの個人戦術・価値観を持って戦ってる

という所なのかと。

あくまで、個人個人が持つ価値観の違いなのかも知れないな?と。時代を追うごとに、戦術も変わる。でも、

チーム戦術の中でどう自分を活かすのか?

という所にフォーカスを当てるのは、いつの時代の選手にとっても不変なものなのだろうなと。それは、当然、フィジカル中心の現代サッカーになったとて変わらないもので。

ペレも、ヒデも、トッティも。恐らくは、メッシもクリロナも。真剣にそれを考えてプレーをしていたからこそ、だから時代の変わり目には違和感を覚えるのだろうな?と。

また、見ている側の人も同じで、僕は同世代のヒデ・トッティの感覚に近いですが、僕より年上の世代の方や、逆に若い方たちはまた違う感覚を持ってるのだろうな?と容易に想像できます。その辺り、集中的に見てるタイミングが違うから・・・なんだろうなと。

こういう部分が、長年サッカーを見続けていて面白い所だなと感じます。戦術は変わり、求められる能力も変わるが、選手がやっている事は変わらない。汎用化というのは面白くなくなる要素である一方、新しい概念も生まれてくる。見る側として、そういう生まれてくるものに注目できればな~と思います。

ちなみに、ヒデ・トッティの対談は、年内までだそうです。ご覧になられてない方は、是非、見て下さい!

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